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第3章 この地に住んだ人々

なぜ、この地には多くの人々が暮らし、やがて貴族たちの邸宅が集まるようになったのでしょうか。その理由のひとつは地形にありました。
前章で触れたように、高辻通の名は周辺より少し高くなった土地に由来すると伝えられています。
京都盆地は豊かな水に恵まれる一方で、古くから洪水とも向き合ってきました。その中で、この周辺は比較的水害を受けにくい土地であったと考えられています。
人々は安全な土地に住み、街は安定した場所を中心に発展していきます。平安時代、この一帯は左京五条三坊五町に属していました。
都の東側に位置する左京は、政治や文化の中心に近く、多くの公家や貴族たちが邸宅を構えた地域でもありました。

火事が生んだもうひとつの御所

平安京の内裏は幾度となく火災に見舞われました。木造建築で造られた都では、大火は避けることのできない災害でした。
しかし、内裏を焼失のたびに再建するには莫大な費用と年月が必要でした。そのため天皇は一時的に有力貴族の邸宅へ移り、そこで政務を行うようになります。
こうした仮の御所は「里内裏」と呼ばれました。
発掘調査や史料の記録によれば、このKAGUYA周辺にも里内裏が置かれていました。
天皇が暮らし、政務が行われた場所が、この地のすぐ近くに存在していたのです。
それは単なる貴族の邸宅ではありません。都の政治が動き、文化が育まれたもうひとつの御所でした。やがて里内裏は仮の住まいにとどまらず、平安後期の政治と文化の舞台となっていきます。
春には花を愛で、秋には月を眺め、和歌を詠み、物語を語る。
この地には、平安文化そのものともいえる人々の暮らしがありました。
千年の時を経た今も、その記憶はこの土地に静かに残されています。

参考資料

京都平安京創生館(平安京資料)

京都市埋蔵文化財研究所

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